【波多野指月窯】萩焼の可能性を広げる窯元
毛利輝元が築城した萩城があった山口県萩市。朝鮮出兵から帰国した毛利輝元が、陶工を連れて帰ったことで、萩焼が誕生しました。使うほどに味わいが増していく、萩焼は今も愛され続けています。
現代の生活にあった萩焼を提案する波多野指月窯をご紹介します。
波多野指月窯とは
萩焼の伝統を守りつつ、独自の美学と創造力を取り入れた作品を生み出し続けている波多野指月窯。萩焼は、茶道具や日常使いの器として長い間多くの人々に愛されてきました。
なかでも芸術的、実用的、文化的な価値を持つ波多野指月窯の作品は、日本の伝統工芸の一翼を担う重要な存在です。
波多野指月窯では、波多野善蔵さんと英生さんの親子二代が萩焼作家として活動しています。
父の波多野善蔵さんは、1972年山口県美術展知事賞受賞を皮切りに、全国さまざま伝統工芸展にて入賞。2002年には、山口県指定無形文化財保持者となり、波多野善蔵の技術と美意識は、次世代の陶芸家にも受け継がれています。
息子の波多野英生さんは、伝統的な陶磁器の焼き窯である登り窯での焼きや、萩で産出される原土からの土づくりに徹底的にこだわって制作しています。2012年に山口県芸術文化振興奨励賞を受賞し、全国の百貨店で個展を開催するようになりました。
萩焼の魅力
萩焼の起源は17世紀初頭、江戸時代初期に遡ります。豊臣秀吉の朝鮮出兵令から帰国した毛利輝元が、陶工を連れて帰ったことで、萩で陶器作りが始まりました。武士階級の間で茶の湯が盛んになるとともに、萩焼の茶碗や水指(みずさし)などが高く評価されました。
茶の湯の世界では昔から、茶人の茶碗の好みの順位、また格付けとして、『一楽二萩三唐津』と言われてきました。1つ目、楽焼(京都)。2つ目、萩焼(山口県萩市)、3つ目が唐津焼(佐賀県唐津市)です。この格付けは、茶の湯が盛んになった頃に生まれています。
萩焼は、素朴で温かみのある風合いや、土が持つ高い吸水性により使い込むほどに変化する「七化け」が魅力です。自分の陶器を育てていくことが、萩焼ならではの味わい方といえるでしょう。
指月窯の名前の由来
山口県萩市堀内区には、萩城がありました。慶長9年(1604年)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれ、当時は城下町として賑わいました。
明治維新の際、城を壊すのと同時に萩焼の窯も壊されることに。城があった指月山(しづきやま)にちなんで、指月窯(しげつがま) という呼び名で呼ばれ始め、現代に至ります。
おすすめの作品
おすすめの作品を2点ご紹介します。
萩茶盌 2
登り窯で焼成すると、同じ土、同じ釉薬、同じ薪を使用しても、置いた場所や季節によって個々に焼きあがりが異なります。薪の灰が被ってできた“しみ”のような模様が出ることもあります。
波多野善蔵さんの作品は、柔らかな土の質感と、自然な釉薬の流れが特徴です。これにより、手に馴染む温かみのある風合いが生まれます。平成14年に山口県無形文化財の一人に指定されてから、その技法は一段と価値を上げました。
「萩茶盌2」は、波多野善蔵さんの持ち味を最大限に生かした作品です。土の触感や釉薬の肌触りをを存分にお楽しみいただけます。
萩角花入
波多野英生さんは、「現代でも使える萩焼」にこだわっています。材料や作り方、焼き方も、萩焼の伝統を受け継いでいますが、近年日本人の生活環境や生活にも合う作品を作っています。
萩角花入は「観光先からでも持ち帰りやすいサイズ感や価格」を意識して作られています。野の花を一輪でも活けて楽しむことができ、飾る花がないときはインテリアにもなる高いデザイン性も持ち合わせています。
まとめ
今回は萩焼波多野指月窯を紹介しました。
伝統を守りながらも、現代の生活に合わせて革新を試みる作陶家・波多野親子の焼き物へのまっすぐな姿勢。一つ一つ異なる趣を持つ「波多野指月窯」の器で、心休まる時間を過ごしてみてはいかがでしょうか。