小代焼とは?その魅力と歴史、特徴など詳しく解説

小代焼とは?その魅力と歴史、特徴など詳しく解説

素朴で力強い風合いと躍動感あふれる「流し掛け」による文様が魅力の小代焼。400年の歴史を持つこの陶器は、熊本の豊かな自然から生まれた独特の美しさで、茶器から日用雑器まで人々の暮らしに寄り添い続けています。

小代焼とは

小代焼とは出典:【公式】熊本県観光サイト もっと、もーっと!くまもっと。

小代焼(しょうだいやき)は、熊本県荒尾市、南関町、熊本市など県北部で焼かれる陶器で、400年以上の歴史を持つ伝統工芸品です。小岱焼とも表記され、どちらも正しい呼び方として使われています。

小代焼の特徴は素朴な風合いながらも力強いフォルム、釉薬の流しかけによる大胆なデザイン性です。陶土は鉄分の多い小代粘度を使用した粗めのもので、それを茶褐色の鉄釉で覆いますが、その特徴的なデザインは藁や笹の灰などから生まれた黄色や白など発色の違う釉を使い分け、流しかけすることによって生まれました。

釉薬の調合の微妙な違いや焼成時の温度、状態によって発色の変化が得られ、特徴的な「青小代」「黄小代」「白小代」の3つの系統に分類されます。色により分けられ、どれも素朴かつ力強い味わいがあります。

小代焼は「腐敗しない」「生臭さが移らない」「湿気を呼ばない」「毒を消す」「延命長寿が得られる」の五徳があるとして、五徳焼とも呼ばれました。そのことから茶器としてだけでなく、実用性の高い日用食器としても親しまれてきたことがわかります。

小代焼に使用される陶土は花崗岩質で鉄分が多く耐火度があるため、1220から1300度近くの高温で焼きます。同じ釉薬を施しても、窯の中の温度差により色が消えてしまったり生焼けになってしまうため、耐火度の違う釉薬を使用したり、釉薬の耐火度に合った窯内の温度の場所での焼成が求められます。

2003年には国の伝統工芸品に指定され、現在では熊本県内の11の窯元が小代焼窯元の会を結成し、伝統の継承と発展に努めています。

小代焼が生まれた背景

小代焼の歴史をさかのぼると、その起源は1632年(寛永9年)にまでさかのぼります。豊前国から肥後国に転封となった細川忠利が、陶工である源七(牝小路家初代)と八左衛門(葛城家初代)を伴い着任し、小岱山麓に窯を開いて焼き物を焼かせたのが始まりと言われています。

細川家の肥後入国に伴った、豊前・上野焼の陶工により始まったと伝えられています。牝小路源七は丹後国(現在の京都)、葛城八左衛門は豊前国出身の陶工だったといわれていますが、朝鮮からの帰化人とする説もあります。

小代焼という名前の由来は、鎌倉時代の武蔵国(現在の東京都と埼玉県あたり)の御家人であった小代氏に関係しています。小代氏は玉名郡野原庄の地頭となり、元寇をきっかけにこの地に定住して山城を築きました。山城は小代城と言われ、小代山(現在の小岱山)の呼称となりました。そして小代山(現在の小岱山)の周辺で始まった焼き物ということで小代焼と呼ばれるようになりました。

小岱山付近でとれる土は鉄分を多く含む粗目の粘土だったことから、小代焼は素朴で力強い焼き物となりました。朝鮮半島の作陶技術を今に伝え、藁灰釉により白・青・黄を発色させる技法は、江戸時代初期から現代まで受け継がれています。

細川家の御用窯として古くは茶器を中心に日用食器や火鉢などが焼かれていました。肥後・細川藩の御用窯として茶陶をつくる一方、日用雑器も焼かれ、特に江戸時代後期になると壺や甕、徳利、湯たんぽ、味噌漉し、蒸かし器などのさまざまな日常の道具が作られるようになりました。

小代焼の歴史

小代焼は寛永9年(1632年)、細川忠利が豊前国から肥後国に転封となり、これに従った陶工源七(牝小路家初代)と八左衛門(葛城家初代)が焼物師を命じられ、小代焼を始めたといわれています。

その後、産業振興を図る藩の方針から細川家の保護を受け1836年(天保7年)に山奉行瀬上林右衛門によって瀬上窯が築かれると、小代焼の技法が受け継がれることとなり窯元も増え発展していきます。

瀬上窯は他国産の陶磁器流入に対抗し、小代焼の増産を目的に江戸後期の1836年に築窯されました。瀬上林右衛門が窯元となり、多くの職人を雇い入れて多種多様な陶器を生産しました。当主のみが一子相伝で焼き物を生産する瓶焼窯とは異なり、瀬上家当主は窯の経営者であって焼き物細工は行わず、雇い入れた職人に作陶させていました。

しかし、明治維新後は有田焼や瀬戸焼といった磁器産地に押され衰退してしまいました。有田焼や瀬戸焼などカラフルな焼き物の影響で一時は衰退していきましたが、昭和になって近重治太郎、城島平次郎らの努力によって復興を遂げました。

昭和になると近重治太郎や城島平次郎らが小代焼復興のために努力を重ね、再び脚光を浴びるようになりました。戦後は小岱山麓にいくつもの窯が築かれるようになります。

さらに小代焼の復活を大きく支えたのが、柳宗悦らが提唱した「民藝運動」でした。益子焼の人間国宝でもあった濱田庄司は流し掛けの技法を多く用いましたが、小代焼の流し掛けの技法を参考にしたといわれています。

その後、柳宗悦の息子である柳宗理が、小代焼特有の藁灰釉と籾殻灰釉の二重がけによって生まれる青みを帯びた白さを「雪の降ったような白」と称賛したことで、小代焼は注目を集めることとなりました。

現在では小代焼は小岱山麓を中心に窯の数も増え、12の窯元によって作品が生み出されています。2002年に、これら12の窯元が参加した「小代焼窯元の会」を発足し、熊本をはじめ東京・大阪・福岡といった都市圏などで、小代焼の普及のための展示会活動を行っています。

小代焼の特徴・魅力

小代焼の最大の特徴は、「流し掛け」と呼ばれる技法にあります。柄杓に取った釉薬を、器物の表面に勢いよく振りかけ、その流れや滴りによって文様を表現するこの技法は、江戸時代から400年に亘って受け継がれています。

職人は「流し掛け」をする前に、これから柄杓を振るう対象となる器物に、おおよその図柄をイメージします。そして、そのイメージを表現すべく柄杓を振るいます。熟練した職人の腕の淀みない動きによって、釉薬は自由闊達な文様となり、器物の表面に降り立つのです。

何万回とやっていても、なかなか思うとおりにいかない奥深さがあり、熟練した職人の技が偶然を味方に付けた時、世界にふたつとない作品が誕生します。そこに小代焼「流し掛け」の醍醐味があります。

小代焼で用いられる釉薬は木炭釉、藁灰釉、笹灰釉、灰釉、鉄釉です。釉薬の調合の微妙な違いや焼成時の温度、状態によって発色の変化が得られ、特徴的な「青小代」「黄小代」「白小代」の3つの系統に分類されます。

いずれの釉薬も藁灰を混ぜており、そこに鉄分や木灰等を加えることにより発色の違いを出しています。藁灰と土の中の鉄分が融合すると青色に発色し青小代となります。この技法は今日まで大きく変化することなく受け継がれてきました。

藁灰の使用には諸説ありますが、この技法は会寧(かいねい・朝鮮民主主義人民共和国の東北部)辺りの地域に由来すると言われています。小代焼以外にも九州各地に藁灰釉や流し掛けの技法は伝わっていますが、藁灰釉への強いこだわりや流し掛けの多用は小代焼の大きな特徴であり、江戸初期もしくは朝鮮半島時代の技法を現代まで受け継いでいます。

実際の制作過程では藁以外に笹、萱、竹、籾殻などの灰を使う場合もありますが、いずれにしてもイネ科の植物であるという点で共通しています。また、藁灰釉は変化しやすい釉薬でもあります。同じ釉薬を使用しても釉薬の濃度や焼成温度、その時の窯の雰囲気により一つとして同じものにはなりません。

小代焼の特徴とも言われる釉掛けの技法には「浸し掛け」「杓掛け」「打掛流し」「吹き掛け」「塗り掛け」「イッチン掛け」「蛇の目」「二重掛け」などがあります。これらの技法により、素朴さと大胆さが調和した独特の美しさが生まれます。

小代焼の原料となる小代粘土は、小岱山付近の粘土層から採取されます。鉄分や小石粒を多く含んだこの粘土は、小代焼の特徴であるざらりとした肌合いを生み出します。小岱山周辺からとれる粘土は花崗質で耐火度があり、鉄分が多いために焼成すると暗い赤茶色になります。

古い小代焼には高台内に鉋で「の」の様な渦巻きを入れている作品が多く、「ニナ尻」と呼ばれます。ニナとは巻き貝という意味です。このような細かな装飾も小代焼の魅力の一つです。

また、柳宗理が小代焼特有の藁灰釉と籾殻灰釉の二重がけによって生まれる青みを帯びた白さを「雪の降ったような白」と称賛したように、その美しい色合いも大きな魅力となっています。

小代焼の制作の流れ

小代焼の制作は、小岱山付近の粘土層から粘土を採取することから始まります。鉄分や小石粒を多く含んだこの粘土は「小代粘土」と呼ばれ、特徴であるざらりとした肌合いは、この粘土から生まれます。

採取した粘土は屋外に置かれ天日干しで乾燥させます。しっかり天日干しすることによって余分なアルカリ成分が抜け、ヒビやキズができにくくなります。

乾燥した粘土を砕いたら水槽で水と撹拌し、泥水にします。その際沈殿するゴミや砂、石などを取り除き泥水を別の水槽に漉し取ります。そのまま放置沈殿させた粘土を取り出し、素焼きの鉢などで天日干しし乾燥させます。この作業を水簸(すいひ)といいます。

粘土が適度な硬さになったところで、屋内で貯蔵します。これを「ねかし」といいます。ねかせることによって粘土中のバクテリアが増殖して、粘土の粘り気が強まり、細工しやすい状態になります。小代粘土は貯蔵することで、粘土に含まれるバクテリアが増殖し粘り気が強くなります。

粘り気が増した粘土を練り、ろくろなどを使って形成します。成形は、ろくろ成形、押型成形、手ひねり成形、たたら成形又はひも作り成形によって行われます。素地の模様付けをする場合には、彫り、象がん、刷毛目、面取り、線彫り、櫛目、印花、貼り付け、輪花、すかし彫り、飛びかんな、イッチン又はニナ尻によって装飾を施します。

形が出来上がったら、乾燥させ700度から900度で素焼きします。素焼きによって器の強度を高め、釉薬の吸収を良くします。

釉薬作りでは、藁・笹・茅などの植物を原料とする灰と、雑木・樫・杉・松などの木を原料とする木灰、細かく砕いた長石などを調合して釉薬を作ります。その他に、鬼板と呼ばれる鉄を含んだ鉱石を、細かく砕いて配合する場合もあります。

小代焼では、木灰釉、藁灰釉、笹灰釉、茅灰釉、鉄釉が用いられます。釉薬の調合や、焼成時の温度や炎の状態によって、青小代、黄小代、白小代などの色が作り出されます。

素焼き後の焼き物に釉薬を流しかけ、小代焼独特の模様を生み出します。釉掛けの技法には、「浸し掛け」、「杓掛け」「打ち掛け流し」「吹き掛け」、「塗り掛け」、「イッチン掛け」、「蛇の目」、「二重掛け」などがあります。

火の回りと、火の通りを考慮しながら、窯の中に器物を詰めます。その際焼成する器物同志の接着や灰のかかり具合、収縮や軟化、器物の高さや向きなど火の回りや通り具合をよく考慮して詰めていきます。

その後1250度から1300度の高温で本焼きを行い小代焼の完成となります。素焼きが800から900度だったのに対して本焼きでは1300度の高温で約10時間かけて焼き上げます。季節や天気などの諸条件によって窯の焚け具合が変わってくるので、作業は条件に合わせて行うことが重要です。この時の温度と釉薬の調合の割合で色合いも変わってきます。

登り窯で焼成する場合は、季節や温度、天気、風の状況、薪の量や乾き具合などが窯の焚け具合に影響するため、それらの状況を把握しながら作業を行います。本焼き後、窯の温度が下がったところで窯から器物を取り出します。

小代焼の技法の中で、朝鮮半島から伝わったことを端的に表す技術として蹴ロクロと登り窯があります。この二つの技術が日本の焼き物に大きな革新をもたらしました。小代焼は今でこそ伝統的工芸品と呼ばれていますが、400年前は最新技術によって生み出された焼き物でした。

まとめ

小代焼は400年以上の歴史を持つ熊本県の伝統工芸品で、素朴で力強い風合いと「流し掛け」による躍動感あふれる文様が特徴の陶器です。1632年に細川忠利の肥後転封に伴って豊前上野焼の陶工によって始められ、朝鮮半島の作陶技術を今に伝えています。

鉄分の多い小代粘土と藁灰釉を使用し、青小代、黄小代、白小代の3系統に分類される独特の発色が魅力です。明治時代の一時的な衰退を経て、昭和期に近重治太郎らの努力により復興し、柳宗理が「雪の降ったような白」と称賛したことで再び注目を集めました。

現在では11の窯元が小代焼窯元の会を結成し、伝統を守りながらも現代の暮らしに合った作品作りに取り組んでいます。五徳焼とも呼ばれる実用性の高さと、一つとして同じものがない芸術性を併せ持つ小代焼は、茶器から日用雑器まで幅広く愛用され、多くの人々の暮らしに豊かな彩りを添え続けています。

参照元:小代焼 ふもと窯 | 観光スポット | 【公式】熊本県観光サイト もっと、もーっと!くまもっと。

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