上野焼とは?その魅力と歴史、特徴など詳しく解説

上野焼とは?その魅力と歴史、特徴など詳しく解説

薄作りで軽量でありながら、茶道の精神「侘び寂び」が色濃く反映された上野焼。400年以上の歴史を持つこの陶器は、多彩な釉薬による表現と格調高い風合いで、現代でも多くの人々を魅了し続けています。

上野焼とは

上野焼(あがのやき)は、福岡県田川郡香春町、福智町、大任町で焼かれる陶器で、400年以上もの歴史を持つ伝統工芸品です。標高901メートルの福智山のふもと上野の地で開窯し、現在も窯元が点在しています。

上野焼の特徴は、茶の道具である「茶陶」として発展したため、軽量で薄作りの格調高い風合いを持つ点です。底にある高台が高く、裾広がりになった撥高台の形をしているのも特徴の一つです。

また使用する釉薬も非常に種類が多く、青緑釉、鉄釉、白褐釉、黄褐釉など様々な釉薬を用い、窯変を生み出すのが特徴で、絵付けは基本的に用いません。その表現は20種類以上にもおよび、ひとつとして同じものはつくれません。

1983年には通産省(現在の経産省)指定伝統的工芸品の指定を受けました。江戸時代には遠州七窯の一つに数えられるほど茶人に愛され、現在でも茶器をはじめ、酒器、花器、飲食器など幅広い作品が制作されています。

上野焼が生まれた背景

1602年(慶長7年)、千利休に茶道を学び茶人として名高い小倉藩主・細川忠興が、李朝から陶工の尊楷(そんかい、のちに上野喜蔵高国と改名)を招いて、豊前国上野に登り窯を築かせたのが始まりと言われています。

上野焼の歴史をさかのぼるとその起源は1592年(文禄元年)から1598年(慶長三年)まで行われた豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に至ります。この戦争中に各国の諸大名は多くの朝鮮人を自国へと連れ帰りました。その中に相当数の陶工もいたのです。

当時の日本では武人の間で侘び茶(いわゆる千利休系の茶道)が流行っており、西国大名たちは連れ帰った朝鮮人陶工たちに盛んに”やきもの”を作らせました。目的としては藩主が自分で楽しむための茶道具の調達でしたが、一方で藩の殖産事業として藩の庇護のもと国産陶器として窯業を奨励したのです。

細川忠興は千利休から直接指導を受けた人で、茶の湯の奥義を極めた大名でした。忠興の目にかなう格調高い特別な器は茶会に用いる茶陶がルーツであり、伝統と誇りに満ちた器たちは30年間にわたり献上され続けました。

上野焼の歴史

細川家の30年という短い統治の間に、上野焼の基礎は確立されました。1632年(寛永9年)、尊楷は細川家の国替えに従い肥後熊本へ移るものの、子の十時孫左衛門らが上野に留まり次の藩主・小笠原家のもと上野焼を継承しています。

江戸時代中期には尊楷が築いた登り窯は、徳川家茶道指役である小堀遠州(こぼりえんしゅう)に「遠州七窯」のと一つとして称賛されるほどとなり、世に広く知られるようになりました。その後も、尊楷の登り窯は小笠原家が統治する幕末まで歴代藩主の御用窯として重用され続けました。

茶人・小堀遠州が茶器を作るために全国七ヶ所の窯元を選定した遠州好み七窯(赤膚・上野・高取・古曽部・志戸呂・膳所・朝日)の一つに数えられています。遠州七窯に選ばれたことは、上野焼の技術と美的価値が高く評価されていた証拠といえるでしょう。

江戸時代から明治時代に変わり、藩制度がなくなった際、藩に守られていたことが逆に災いし、一度は途絶えかけた上野焼。明治時代に入ると、廃藩置県により藩が消滅し一時、上野焼は衰退したかと思われましたが、1902年(明治35年)、熊谷九八郎らにより田川郡の補助を受け復興されています。

明治以降、小笠原氏が東京へ移住した後も1875年(明治八年)頃まで十時家、渡家、吉田家は共同製作を続けますが、各々の独立を考えざるを得なくなります。一時期は窯が閉鎖され生産中止となりましたが、地元住民の中には断続的ながらも作陶を続ける努力をした人もおり、窯の復興へとつながったのです。

このような苦難を乗り越え、そんな上野焼は1983年に国の伝統的工芸品に指定され、現在に至ります。現在では9つの窯元からなる上野焼協同組合が組織され、伝統の継承と発展に努めています。

上野焼の特徴・魅力

上野焼には、”質素で静かなもの”を意味する茶道の精神「侘び寂び」が色濃く反映されています。目立ちすぎず、それでいてどこか存在感はある。それが上野焼の一番の魅力です。

茶陶をルーツに持つため、一般的に薄作りで軽いことが特徴にあげられます。他の陶器と比べると生地が薄く、軽量であることが大きな特徴で、磁器に近い良質な粘土からつくられています。これは茶道具として使いやすくするための工夫でもあり、長時間の茶会でも手に負担をかけません。

格調高い茶器としての初期の上野焼は、高台が高く末広がりになった「撥高台(ばちこうだい)」の形をしています。形成はろくろがメインですが、手びねり、たたら、押し型などの技法も使われ、全体的に薄づくりの作品が多くなっています。

現代注目されているのが、たくさんの種類の釉薬を用いることで生まれる多彩さです。それはまさに、伝統は大切にしながら、さまざまな器作りに励んでいた先人たちの努力と工夫の結晶といえるでしょう。

上野焼の代表的釉薬は、酸化銅を使った緑青釉で鮮やかな青緑色が魅力です。銅由来の緑が印象的な釉薬を流れるようにかけた「緑青流し」は、上野焼の代名詞ともいえます。鉄釉を使った陶磁器は赤茶色でマットな質感の光沢のない仕上がりになり、白く濁る藁灰釉、ガラスのように透き通る透明釉など使用する釉薬の種類が多く、表現の仕方は20種以上にもおよびます。

また、絵付けなどはあまりせず、釉薬がけが主流です。絵付けをする場合は一度素焼きしてから行われます。多彩ながら、どこか趣がある器に長い歴史を感じることができます。

模様つけには、化粧掛け・刷け目・へら目・彫り・櫛目などの技法が使われることがあり、見る角度で変わる表情も上野焼の魅力です。明治以降の上野焼製品には”左回りの渦模様”「左巴(ひだりどもえ)」と呼ばれる陶印が高台内や底面などにあります。この左巴は高台を削る際に自然に生じた模様が、陶印として定着したと考えられており、現在も”巴マーク”や”巴ライン”などと呼ばれ、上野焼に欠かせない大切なシンボルです。

上野焼ならではのツヤは、土や灰などからできた自然釉と銅や鉄を混ぜた釉薬によるものです。ガラス質の美しい見た目だけでなく、耐水性の高さも特徴。また、薄く繊細なように見えて丈夫なのは、高温での焼成に耐えられる陶土が使われているからです。

そんな上野焼は、持ちやすさ・使いやすさはもちろん、釉薬の流れ方のグラデーションなど、色彩の美しさも魅力です。

上野焼の制作の流れ

上野焼は、原土掘りから本焼まで、何日もかけて、たいへん美しい製品となります。土を相手に孤独な作業が続く職人の日常では、周辺地域で採れる土を用いる器は、どれも薄作りのため、軽量なのが特徴です。

陶器の基本は「土さがし」といわれます。良質の粘土と、釉薬に使われる鉄釉、銅釉、わらを燃やしてできた灰釉が、匠の技により上野焼の美しさを作り出す素になります。職人は、よい粘土と釉薬の素になる鉄を見つけるために、労を惜しまずあちこち歩いて回ります。

まず、粘土づくりから始まります。掘り出した原土を細かく砕き、水に溶かして不純物を取り除きます。その後、適度な硬さになるまで水分を調整し、よく練り上げて陶土を作ります。上野焼の粘土は基本的にデリケートで、作りも薄いため特に丁寧な扱いが必要です。

成形は主にろくろを使って行われます。上野焼は型ものを作らず、長年の修練に裏打ちされた匠の技が、蹴ろくろで形をつくります。薄作りという特徴を活かすため、高い技術力が要求される工程です。

成形した粘土を棚状に組み立てられた場所に並べ、干して半乾き状態まで乾燥させます。半乾きになったら裏を削ったり、持ち手を付けたりして仕上げていきます。上野焼の粘土は基本的にデリケートで、作りも薄いため屋内で2から3週間かけて乾かします。一つずつ高台に付着した釉薬を拭き取るなど、細かな部分まで妥協は許されません。

乾燥が完了したら素焼きを行います。この工程で器の強度を高め、釉薬の吸収を良くします。合格した物は、釉薬という薬をかけます。釉薬には、わら灰や山の土に含まれる酸化鉄などが使われます。釉薬は、器にガラス質の肌触りをもたせ、きれいな色に発色させます。上野焼は土と釉薬による炎の魔法といわれます。

窯で焼成した際に、色合いや器の表情を大きく左右する釉薬。この液体をかけるのも、すべて手作業で行っています。藁の灰や鉱物など、昔ながらの自然素材を原料とした釉薬を用いることも多いです。

準備が整ったら、いよいよ本焼です。本焼の窯には、薪窯とガス窯の2種類があります。約30時間にわたり、窯内の温度や煙の色などを見張る必要がある、窯の火入れ。気を抜くと今までの工程が無駄になってしまう最も重要な作業です。

窯焚きの季節は、冬。11月から12月の寒いときのほうが、温度の上昇があり、火の力が激しく、夏は温度が思うように上がらないことがあります。冬のほうが失敗が少ないのです。

窯焚きが始まると、職人は丸2日間、窯のそばを離れません。窯の傍まで運んでもらったおにぎりをほおばり、仮眠を取り、熱気を体で感じながら、具合を見ます。職人たちの疲労もピークを迎えた早朝。空が白みだすと、凛とした神秘的な空気に包まれます。

ガス窯では、約10時間焼かれた後、窯出しします。焼き上がった作品は、一つ一つ検品され、品質の確認が行われます。

現在では、抹茶碗など伝統的な器のほか平皿、花瓶、一輪挿しなどさまざまなフォルムの陶器が作られています。

まとめ

上野焼は400年以上の歴史を持つ福岡県の伝統工芸品で、茶道の精神「侘び寂び」が色濃く反映された薄作りで軽量な陶器です。豊前小倉藩主細川忠興によって始められ、朝鮮陶工尊楷の技術を基に発展しました。

江戸時代には遠州七窯の一つに数えられるほど茶人に愛され、明治時代の一時的な衰退を乗り越えて1902年に復興し、1983年には国の伝統的工芸品に指定されました。

多種多様な釉薬による表現が特徴で、特に緑青釉による「緑青流し」は上野焼の代名詞となっています。現代でも9つの窯元が伝統を受け継ぎながら、時代に合わせた新しい表現にも挑戦し続けています。

薄作りでありながら丈夫で、使いやすさと美しさを兼ね備えた上野焼は、茶器から日常使いの器まで幅広く愛用され、多くの人々の暮らしに彩りを添え続けています。

参照元:上野焼協同組合(https://www.aganoyaki-fukuchi.com/

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